大多喜城 (千葉県夷隅郡大多喜町) | ||
天守:再建天守 続日本100名城 | ||
戦国期の主な歴史 1521年 真里谷信清により築城。当初は小田喜城と呼ばれた。 1544年 里見義尭の家臣・正木時茂の攻撃を受け落城。その後、三代に渡って正木家が城主となる。 1581年 城主・正木憲時が里見義頼との内紛により殺害され、以後、代官が置かれる。 1590年 里見義康が豊臣秀吉の惣無事令に違反し、大多喜城のある上総の領地を没収される。 徳川家康が関東入封。里見家の抑えとして徳川家臣・本多忠勝が10万石で入城する。 1601年 忠勝が伊勢桑名へ移封。忠勝の次男・忠朝が5万石で城主となる。 1615年 忠朝が大坂夏の陣で討死。以後は阿部家や長沢松平家が城主をつとめる。 (メモ) 蛇行する夷隅川を天然の外堀として利用している。 夷隅川は江戸時代、御禁止川とも呼ばれ、参勤交代のときに、将軍に鯉を献上するため、魚を獲ることを禁じられていたという。 現存する薬医門は大多喜高校の敷地内にあるが、土日は生徒がなく見学しやすい。 城下には渡辺家住宅(重要文化財)があり、その他、町ぐるみで城下町の雰囲気づくりに頑張っている。 現在の大多喜城、城下町の礎を築いたのが本多忠勝であるため、忠勝推しである。 天守が存在したかは定かではなく、現在の天守が復元天守なのか復興天守なのか模擬天守なのか意見が別れている。 |
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再建天守 | 薬医門(現存) | 夷隅川 |